蟹は蟹
雨籠もり2026年7月27日1,000〜5,000字 あらすじ
蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹は蟹
「春」
その日の講義は昼過ぎの哲学Ⅰひとつだけで、だから部屋着としてしか使っていなかっただるだるの「crab is crab(蟹は蟹)」と書かれたTシャツを着て講義へ向かうと、教授が拳銃を持った不審者に脅されている。ナイキのジャージにバーガーキングの紙袋を頭に被って「手をあげろ」。首元には小さなくす玉みたいなのが付いている。
私たちは若者なので従順に両手を高々と掲げる。と、不審者は満足したように拳銃を振り回して、後方にいる生徒――すなわち私のことを指す。「おいそこの変なTシャツ。お前、講義室の鍵を閉めてこい。もし逃げ出したりすればこの男を殺す。お前のせいでひとが死ぬんだ、そういうのは目覚めが悪いだろう、夜寝る前とかもやもやしちゃうだろ」
そこまで考えられるようなひとが、軽々教授のことを撃ち殺せるとは思えない。が私は若者で従順なので講義室の鍵を閉める。閉めながら、いや待てよさっきTシャツのこと馬鹿にされたな、と考える。いや自分でも馬鹿馬鹿しいTシャツだとは思ってるけど、いざひとにそれを指摘されるとなんかこうすごい恥ずかしいな。顔に体温が上がってくるのが分かる。席に戻るころには私はほとんど泣き出しそうで、「crab is crab(蟹は蟹)」と書かれたTシャツには二、三滴ほど落ちた涙の染みがついている。
「大丈夫?」
ぱっと顔をあげると、心配そうな女の子と目が合う。金髪をボブにぱっちり揃えている子で、黒色のパーカーには有名バンドのロゴが大きく載っていた。カジュアルでさりげなくしかしアクセントとしても成立しているそのデザインに見惚れると同時に、自分のシャツの馬鹿馬鹿しさにまた泣きたくなるけれど、ここはぐっと我慢する。「大丈夫」
「不運だね、私たち」女の子は、講義室の真ん中で拳銃を振り回している男を眺めながら吐き捨てる。「あんなのに絡まれるなんて。大学も大学だよ。せっかく学生証があるんだから、学生証がないと入れない仕組みにすればいいのに」
それはそうで名案だとは思うけれど、同時にいまする話でもないよなという気も若干ある。
「あのひと、何が目的なんでしょうね」
私が言うと、女の子は「さあ?」と首を傾げる。
「講義の終わる十四時半までには、終わってくれるといいんだけどね。彼氏とデートあるし」
「彼氏さんいらっしゃるんですか」
「いらっしゃるんですよ」
それは結構なお点前ですね、と返して、おっとコミュニケーションを間違えたと私はひえひえする。が、女の子はあまり気にしていないというか心ここにあらずころころといった感じで不審者の動向を伺っている。伺いながら、また溜息をついて。
「春だからじゃない?」という。
「春?」
「春」
「……何がです?」
「いや」女の子は視線だけでちらりと私のことを見て。
「不審者が出る理由だよ」
「はあ……」
よくわからず、曖昧な相槌になる。
「つくしみたいなことですか」
「いんや」
首を振る。
「ほら、春になったらなんか変人とか奇人とかが増えて、そういう逮捕とかが増えるみたいな話あるでしょ。それなんじゃない? いま起きてることって。そういう社会的な傾向のひとつなんじゃない?」
言われて、なるほど確かにと私はうなずく。けれど同時に恐怖みたいなものも覚えていて、たとえばこういう、すごく怖い目にあったことについても、赤の他人にとっては「社会的な傾向」なんてこざかしいアイテムのひとつのパラメータとして吸い込まれてしまうのか、という絶望がある。
「夏」私は言う。
「夏はどうなんでしょう」
「夏?」女の子は眉をひそめる。
「なにが」
「ですから、不審者です」
「不審者の夏?」
「不審者は夏は、どうしているんでしょう。春にたくさん出てきた不審者は、何をしているのか」
「さあ」
聞き覚えのある相槌で。
「暑いから家こもってんじゃない? それかスイカ割りとか」
「スイカ割り……」
懐かしい響きだ、と私は思う。スイカ割りなんて久しくしていない。それでもそうかスイカ割り――ということは、不審者はひとりではないのだろうか。スイカ割りってやっぱり、木の棒を持ってうろうろするひとと、それから指示するひとが必要なわけで。
「いいな……」
「……なにが?」
「スイカ割り」
「スイカ割りしたいの? この状況で?」
「……したいかもしれない」
「変なの」
女の子は、そこで初めてちょっとだけ笑顔を取り戻して。
「してもいいよ、スイカ割り」
と言う。
「……え?」
「してもいいよって、スイカ割り。近所にスイカ安く売ってる八百屋あるし」
「いいの」
「いいからいいって言ってんでしょ。まあ、ただし、あれをどうにかしてからじゃないと、難しそうではあるけどさ」
言って、女の子は目線だけで中央の不審者のほうを指した。不審者は教授の首に腕を回した状態で、拳銃を振り回している。どうやら幾人かが止めに入ったようで、不審者はパニックを起こしたのか、持つ拳銃をぶんぶんしながら声を荒げていた。
「無駄だぞ! 俺は覚悟をしてここに来たんだ! それを果たすまではなにもできない!」
「それなら」
言葉が鳴って、女の子が「え」と私のほうを向く。
私は。
私は、そのまま続ける。
「それなら、あなたは――どうしたいんですか」
「お、おお、俺は」不審者の男は、動揺したのか、私のほうへ拳銃を向けてくる。
「俺は、俺は、俺は……」
「私は」
私は言う。
「スイカ割りがしたいです」
「スイカ……」
「あなたは」
問う。
「あなたは何がしたいんですか」
「俺は」
不審者は、胸元のくす玉を指さして。
「俺は、俺の――誕生日を、祝って欲しい」
「それならそう言えばいいのに」
私はくす玉から伸びている糸をつまむ。脳裏に浮かんでいたのは真夏の海岸だ。砂浜に置かれたスイカ。私へ向かう声援。そうだ、私だってこんなTシャツを着たいわけじゃない。私が着たいのはもっとおしゃれな服なのだ。「crab is crab(蟹は蟹)」ではなく。
指に力を込める。そして私は、地球誕生のような覚悟を伴って。
くす玉の糸を引く。
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